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  • 執筆者の写真店長

「プロゴルファを目指した日々」(後編③)

でも、向かった先はゴルフ場ではなく、ゴルフ場から程近い「宇都宮市森林公園」でした。

早朝の閑散とした駐車場の片隅に車を停めました。

シ‐トを倒し、腕を組みながらずっとラジオを聴いていました。

しばらくすると腰やケツが痛くなったので、ダム湖の周りを散歩したり、水際に腰を下ろしてボケ~ッと池を眺めたり…。

お昼になると、おにぎりを食べ、またラジオを聴いたり、散歩を繰り返したり…。

公園を出るのはいつも家に帰っていた時間に合うようにしました。

次の日も、またその次の日もゴルフ場へは行かず、公園で1日中過ごしました。

やることがなく、本当にヒマでしたので、これでもかというぐらい時間がゆっくり過ぎていきました。

ラジオからは当時流行っていた Classの「夏の日の1993」がよく流れていたことを思い出します。

最近、YouTubeで約25年ぶりに聴きましたが、狭い車の中で天井を見つめながら聴いていた光景が鮮明に蘇りました。

そんな生活を1ヶ月以上続けていましたが、「こんなこといつまでも続けていられない」と思い、「もうちゃんと話をしよう」と決意しました。

家に帰り、皆で晩飯を食べていた時に切り出そうとしましたが、両親の顔を見るとなかなか言い出せませんでした…。

お風呂に入り、気を取り直してからと思いましたが、それでも言い出せず…

仕方なく、ちゃまを連れてしばらく散歩をしながら気分転換をして家に戻り、茶の間に座りました。

心の中で「よしっ!」と掛け声をかけましたが、言い出せません。

今度は「イチ ニノ サン!」とリズムをとっても、どうしても言葉が出てこないのです…。

いつもと様子が違う私に気付いた母が「どうしたの?」と聞いてきました。

結局、その言葉がきっかけとなりました。

しばらくの沈黙の後、「お父さんゴメン。プロゴルファ‐目指すの諦めるよ…」

横になり、テレビを観ていた父は体を起こし、「なんだとコノヤロ‐!!!」と大声で怒鳴りました。

「せっかくアメリカまで行かせてもらったのにゴメン…」

「だからあれほど言ったんだっ!!!」

「ゴメン…」

母はただ黙って聞いていました。

父はテレビを消すと立ち上がり、寝室の引き戸をぶっ壊れるぐらいの力でバシャ~ンッと閉め、茶の間からいなくなりました。

すると母がやさしい口調で…

「最近はゴルフ場に行ってなかったでしょ?」

突然の問いにビックリした私は、「なんで知ってるの?」と聞き返すと、

「洗濯する時、前は靴下にいっぱい芝生が付いていたのに、最近は全然芝生が付いてなかったから…」

その言葉を聞いて私は堪えきれずに泣き出してしまいました。

そのことを知っていたのに、毎朝、いつものようにおにぎりを作ってくれ、笑顔で「いってらっしゃい!頑張りなぁ~!!」と送り出し続けてくれていたのです。

その時の母の気持ちを考えると申し訳なさ過ぎて更に涙が溢れ出しました。

(親となった今、それをジッと堪えながら見守り続けた「親のスゴさ」を感じます)

「頑張ってやった結果だから。子供の頃から負けず嫌いで、努力すれば何でも出来ると思ってやってきただろうけど、ああいう世界はそれだけじゃなれないんだと思うよ。少しゆっくり休みな。まだ21歳!なんでも出来る!」

母の言葉には本当に救われました。

しばらく家でゆっくり過ごしました。

キャディ‐バックを見るのもイヤだったので押し入れにしまいました。

何をやる気力もなく、部屋にひきこもり、ボケ~ッとテレビを観ている毎日でした。

夜になると、ちゃまを連れて散歩に出かけ、高校時代によくアプロ‐チの練習をしていた近所の「台の原公園」まで行き、ちゃまと一緒にベンチに座り、夜空を見上げました。

「ちゃま こんな自分になると思わなかったよ…」

ちゃまはそんな私を慰めてくれるかのように、優しい目で流れる涙をペロペロと舐めてくれました。

そんな「抜け殻人間」のような生活は2ヶ月ぐらい続きました。

その間、「プロを諦めた」という噂を聞いたアメリカ時代の友人たちから励ましの電話や手紙をたくさん貰いました。

東京や神奈川の同級生だけではなく、アメリカにいる後輩たちからも国際電話で励まされました。

同じ栃木から行った友人や埼玉の友人はよく自宅に来てくれ、アメリカが冬休みに入ると、宮城と岐阜の後輩は帰国したついでにわざわざ自宅まで来てくれたのです。

たくさんの励ましをもらいましたが、「もう一度…」という気持ちになることはありませんでした。

でも、本気で心配してくれる友人たちを見て、「これだけでもアメリカに行って良かったかも」と思えるようになっていきました。

気持ちは少しずつ前向きになり、先の事を考えるようになると、設備業を営んでいた父の仕事を手伝ってみたくなりました。

父に話すと何の返事もありませんでしたが、それは「OK」と解釈して作業服を着てトラックに乗り込む日々が始まりました。

私は道具を運んだり、スコップで穴を掘ったりすることしか出来ませんでしたが、父の働く姿を間近で見て、「金を稼ぐって大変だなぁ~」としみじみ思ったものです。

私は「父の後を継いでもいいなっ!」と思い始めていたので、家に帰ってきて廃材で配管の練習をしたり、ユンボの講習会に行ったりしていたのですが、

母は「せっかくアメリカ行ってゴルフを勉強してきたんだからそれが生かせる仕事がいいんじゃないの?」とアドバイスをしてくれ、

「そうだな、それならアメリカに行ったことも全く無駄ではなくなるし!」と納得して、1994年4月、高校時代にお世話になったスポ‐ツショップ(ゴルフショップ)に就職しました。

入社した頃は、あまり自分でプレ‐することはありませんでしたが、お客さんから誘われることが多くなり、ゴルフをやる機会が徐々に増えていきました。

お店で出会った人たちも相当な人数ですが、競技ゴルフにも出場するようになったので、「ゴルフ」を通じてビックリするくらい人脈が広がりました。

お店でコ‐ヒ‐を飲みながら、ゴルフ場でゴルフをしながら、様々な会社を経営する社長さんたちから学んだことは今の私には本当に役に立っています。

もしゴルフショップに就職していなければ、「唐揚げ屋の親父」をやるチャンスにも巡り合うことはなかったでしょう…。

もちろん、妻と出会うこともなかったですし、…ということは小学6年生になった息子もこの世には誕生しなかったことになります。

私の「今日」があるのは、全て「ゴルフ」と出会ったからこそなのです。

ゴルフに出会わなければ180度違う人生になっていたことでしょう。

どんな人生でも、生きていれば「良い事」、「悪い事」、いろんなことが起こりますが、極端な話、今日までの人生を振り返ったならば、今死んだとしても私は「一片の悔い」もありません。 (まだまだやりたいことがいっぱいあるので80歳までは死にたくありませんが…)

それぐらい自分としては「充実した人生」を歩んでいるという自負があります。

だから「ゴルフ」には心から感謝しているのです。 (そうでなければ赤裸々にこんな内容のブログは書けませんし…)

ただ、あれだけ苦労をかけた両親に対して「恩返し」をほとんど出来ていません。

(たまに食事に連れて行ったり、正月にお年玉をあげることぐらいです…)

両親は共に古希(70歳)を迎えました。私は今月45歳になりました。

今年は息子の学童野球などで余裕がありませんが、来年からは再び「競技ゴルフ」に戻りたいという気持ちがあります。

(今はまだ沸々と燃えてくるものがありませんが…)

レギュラ‐(一般)の部で優勝を狙えるのは50歳までだと思っています。

チャンスは5年です!

父も母もそんなことはきっと微塵も望んでいないでしょう…。

でも、自分としては、プロを本気で諦めるきっかけとなった 「栃木県知事盃ゴルフ選手権」でリベンジ優勝を果たしたいと思っています。

そして、紙面からはみ出すほどのデカい顔でガッツポーズする写真が大きく載った 地元紙「下野新聞」を両親が元気なうちに見せることが、わたしにとっての「最高の恩返し」であり、数ある中の「大きな夢の1つ」なのです!

ではまた!!

次回更新は6月29日(木)です!

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