「プロゴルファ‐を目指した日々」(前編②)
夏の大会が終わり、部活を引退すると、すぐに「下野カントリ‐クラブ(現 ディアレイクカントリ‐クラブ)」という、自宅から自転車で30分ぐらいのゴルフ場に電話を入れ、「夏休みに入ったらキャディ‐のアルバイトをさせてほしい」、「アルバイトが終わった後は無料でコ‐スをプレ‐させてほしい」、この2つをお願いしました。
当時は平日でもほとんどのゴルフ場が「満員御礼」のゴルフブ‐ム真っ只中!
ゴルフ場側は「猫の手も借りたい」ほどの状況だったので二つ返事でOKをもらえました。
夏休みに入ると、毎朝5時に起きて朝飯も食わずにキャディ‐バックを背負い、自転車にまたがり家を出ました。
まだ薄暗い道を快調に飛ばしていくのですが、私が通っていた下野カントリ‐クラブは高台にクラブハウスがあるので最後に「心臓破りの坂」が待ち受けているのです。
その坂を10kgを超えるキャディ‐バックを背負い、歯を食い縛りながら必死にペダルを漕ぐのですが、どうしても最後までは上り切れず、途中からハァハァ言いながら自転車を押して上がるのがやっとでした。
アルバイトキャディ‐の名簿に名前を書く時には全身汗ビッショリ…。
アルバイトキャディ‐の中ではいつも「一番乗り」でしたので、常にトップスタ‐トのキャディ‐に付くことが出来ました。 (早く行けば行くほどバイトが終わってからコ‐スでプレ‐出来る時間が増えたからです)
ハ‐フ(前半の9ホ‐ル)が終わるとお客さんたちは一旦休憩(食事)をとります。
普通、キャディ‐もそれに合わせて控室で食事をとるのですが、私はゴルフ場内にある練習場へ直行!
そして後半の9ホ‐ルが終わってアルバイトの仕事が完了してから遅めの昼飯をほとんど噛まずに食べ、休憩も取らずにコ‐スへ出ました。
その頃は「研修生」と呼ばれるプロゴルファ‐を目指す若者がどのゴルフ場にもたくさんいました。
でも、その頃の研修生は忙しさから、練習をする時間が本当に限られていました。
たまに研修生と一緒にコ‐スに出られることもありましたが、ほとんど1人でキャディ‐バックを担ぎながらプレ‐していました。
そんな生活を夏休み中、1日も休まず続けた結果、夏休みが終わる頃にはクラブを握り始めてから半年でハ‐フ(9ホ‐ル)を30台でプレ‐出来るようになりました。
「俺には才能がある!」と手応えを感じ、ますます夢は膨らみました。
でも、始めたのが17歳という遅い年齢だったので、当時「雑用係」のように扱われていた研修生になってプロを目指すのは時間がかかり過ぎると思ったのです。
その頃、毎週のように本屋で立ち読みをしていた「週刊ゴルフダイジェスト」という雑誌でアメリカに2年制の「ゴルフアカデミ‐」があることを知りました。
密かに東京の事務所へ電話を入れ、資料を取り寄せましたが、1週間経っても届きませんでした。
ある日の夜、父から「こっちに来い!」と怒鳴り声で呼ばれ、茶の間に行ってみるとその資料が封を切られた状態でテ‐ブルの上に置かれていました。
私は土下座をし、泣きながら「2年間だけ行かせてほしい。もし、2年やって芽が出なかったら諦めるから!」と両親に訴えかけました。
その時の父は以前とは違い、ただ黙ったままでした。
2学期に入ると本格的な「進路相談」が始まりました。
一応、進学校に通っていたので、ほとんどの生徒が受験勉強に本腰を入れ始める時期でした。
母は担任の先生に「バカ息子」の相談したようで、先生からも「夢を持つのはいいことだけど、現実はそれほど甘くはないぞ!」と反対されました。
部活顧問の先生をはじめ、体育科の先生方は、「N体大に推薦枠があるから、将来は体育の先生になったらどうだ?」と勧めて下さいましたが、それはあくまでもバレ‐ボ‐ルとしての推薦入学になるので、やはり遠回りになってしまうと思いました。
親をはじめ、学校の先生や友人から反対されればされるほど、アメリカ留学への思いは強くなるばかりでした…。
それからも平日は練習場にキャディ‐バックを置いてもらい、片道3kmの道のりを走って通ったり、週末はどんな悪天候の時でも必ず5時に起きてゴルフ場へアルバイトに行き続けました。
10月が終わる頃、家で晩飯を食べていると、何の前置きもなしに父がいきなり…
「2年だけ行って来い!」とぶっきらぼうな口調で言ったのです。
突然のことにビックリして父の顔を見ると目に涙を一杯溜めていました。
父はその「一言」だけしか言いませんでした。
母は笑顔で「よかったね!頑張ってきな!」と言ってくれましたが泣いていました。
兄も自分勝手な弟に励ましの言葉をかけてくれました。
私はただ泣きじゃくりながら頷くのが精一杯で、「ありがとう」の一言も言えませんでした。
高校を卒業し、アメリカへ向かう前日。
お世話になったゴルフショップの店長と練習場の支配人のところへ挨拶に行きました。
店長はどこからどう見ても接客業には向いていない「頑固親父」でしたが、帰り際に「これ持ってけ!」と私に合うサイズのゴルフグロ‐ブを10枚もくれました。
支配人は「帰ってきたらこっちが教えてもらうようだな!頑張ってこいよ!」といつもと変わらぬ笑顔で話しかけてくれました。
いよいよ出発の日がやってきました。
宇都宮駅前から高速バスに乗り、成田空港へ向かいました。
家族だけではなく、母方の祖父、両方の叔父、叔母も見送りに来てくれて一緒にバスに乗り込み、その光景はまさに「御一行様」のようでした。 (きっと祖父や叔父、叔母にとっては、「宇宙」にでも旅立っていくような感覚だったのかもしれません。)
空港に着き、出発時刻が近づくと、皆で記念写真を撮り、1人1人と握手をしてからエスカレ‐タ‐に乗りました。
振り返りながら手を振っていると涙が溢れそうになったので、「泣き顔は見せちゃダメだ!」と前を向き、手だけを振りました。
間もなく、シアトル空港行きの飛行機は乗び立ち、きっと飛行機が見えなくなるまで手を振り続けているであろう母の姿を思い浮かべながら、「絶対に2年後は胸を張って帰ってくるぞ!」と自分自身に気合を入れ直し、1991年4月、異国の地「アメリカ」へと旅立ったのです。
ではまた!!
次回更新は4月27日(木)です!