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  • 執筆者の写真店長

No.276 「プロゴルファ‐を目指した日々」(中編①)

お元気ですか?

花見シ‐ズンは足早に過ぎ去り、今は鮮やかな緑色の「葉桜」に変身しました。

個人的には「葉桜」も大好きですが、その姿にカメラを向ける人や立ち止まって眺める人はなく、見向きもせずに通り過ぎていく人間たちを桜たちはどう思っているでしょう…。ちょっと前まではあれほど…。

「何も思っていないよ!」。きっと桜たちはこう答えるような気がします。

別に桜たちは人間の目を楽しませるために咲くわけではなく、自分の寿命をまっとうするためだけに生きているのですから!

私の体にはちょっと窮屈過ぎる席に座りながら、9時間かけて太平洋を渡り、アメリカ(シアトル空港)に到着しました。

日本との時差は16時間。日本が昼12時の時、シアトルは前日の夜8時という感じでほぼ昼と夜が逆になります。

シアトル空港から車で約1時間北上した「レ‐シ‐」という場所に私が2年間過ごすゴルフアカデミ‐はありました。

日本の企業が設立したこともあり、生徒は全て日本人。

北は北海道から南は沖縄まで、全国から約60名の生徒が入学したと記憶しています。

そのアカデミ‐の正式名称は「セントレ‐シ‐大学」。

ゴルフだけではなく、テニスや語学専門の学部もあり、私は「国際ゴルフ学部プロプレ‐ヤ‐科」に属しました。

敷地内にあるドミトリ‐(寮)に入り、食事は校舎内にある食堂で朝、昼、晩の3食を現地のアメリカ人スタッフがバイキング形式で毎日用意してくれました。

提携しているゴルフ場へはスク‐ルバスで10分足らず。治安も良く、環境としては最高でしたが、「学生ビザ」での留学だったため、月~金の午前中はアメリカ人教師陣たちの授業を受けなくてはならない事だけが憂鬱でした…。

(「俺は英語を習うためにアメリカに来たわけじゃねぇ~!!」という気持ちは最後までありましたから)

実際、授業をまともに聞いていなくても、買い物やゴルフレッスン、試合でアメリカ人と同組でプレ‐する時など、さまざまな場面では、片言の英語と私の最強の武器「ボディ‐ランゲ‐ジ(身ぶり手ぶり)」で凌ぎまくりました。

到着したその日に入学式的なセレモニ‐が行われ、終わると校舎内を順に案内されました。

打席数は少なかったものの、室内練習場も完備されていてテンションが上がりまくりました。

更にテンションが上がったのは、そこで練習していた先輩のスイングを見た時でした。

(ちなみに私は2期生として入学しました)

全く無駄のないシンプルなスイング。その当時、アメリカで主流となっていた「ボディ‐タ‐ン」と呼ばれる小手先ではなく、体の回転でボ‐ルを捉えるスイングを初めて目の当たりにしたのです。

先輩の惚れ惚れするような打球音は常に一定で、その音が練習場内に響き渡っていました。

「すげぇ~!俺も早くこんな音でボ‐ルを打てるようになりたい!」

私の「やる気スイッチ」は益々ON状態に入りました。

早速、翌日から午前中は授業、午後からはゴルフという「日常」が始まりました。 (土、日は朝から晩までゴルフ尽くめでした)

昼飯が食べ終わると、高校時代にキャディ‐のバイトで貯めたお金で渡米直前に買った新品のゴルフセットを担ぎ、バスに乗り込みました。

ゴルフ場に着くと4名のレッスンプロが私たちを出迎えてくれました。

国際ゴルフ学部は「プロプレ‐ヤ‐科」、「インストラクタ‐科」、そして「一般科」と3つのクラスに分かれていました。

私が属した「プロプレ‐ヤ‐科」のティ‐チングプロは往年の名選手「フレッド・カプルス」のジュニア時代を指導した「ジョ‐・ティ‐ル(以下ジョ‐)」というアメリカでは有名なレッスンプロでした。

(日本のゴルフ雑誌にもレッスン企画で幾度か登場したことがあります)

ジョ‐は担当する生徒一人一人のスイングや球筋をチェックし、分かりやすい英語を交えながらレッスンを始めました。

私の順番がやってきました!握手をしながらの自己紹介が終わると、その時点で出来る自分なりのスイングでボ‐ルを打ち始めました。

ジョ‐は「直すポイントはいくつかあるが、体のバランスとスイングリズムがとても良い!」と褒めてくれ、「間違いなく君は2年でスクラッチプレ‐ヤ‐(ハンディキャップ0)になれる!」とも言ってくれました。

そして、ジョ‐は私の目の前でボ‐ルを打ってくれました。

最初はストレ‐トボ‐ル。その後、ドロ‐(フック系)、フェ‐ド(スライス系)、ハイ(高い)、ロ‐(低い)と1本のクラブでいくつもの球筋を見せてくれました。

圧倒されていた私にジョ‐は「まずはベ‐スとなるスイングをしっかり作ること。そのスイングを応用すればボ‐ルを自由自在に操れるようになる。」と言ってくれました。

アメリカに行くまでは全くの「我流」だったので、ジョ‐からのアドバイスに対して素直に耳を傾けることが出来ました。

寮に戻っても、晩飯を食べた後は1日も欠かさず夜遅くまで室内練習場で打ち込みました。

手はマメだらけになり、月に一度は爪切りで膨らんだマメを切り落とさないと邪魔でクラブが握れないくらいでした。

そんな毎日を送っていると、6月には70台でプレ‐出来るようになり、8月には69(-3)というベストスコア‐が飛び出しました!

友人たちは学校近くのデニ‐ズでお祝いをしてくれ、私自身もクラブを握り始めてから1年半で60台が出せたことに大きな手応えを感じていました。

「よしっ!この調子で行けば俺は絶対プロになれるぞっ!」

しかし、ゴルフの「本当の難しさや怖さ」を知らぬまま、想像していたよりも早いスピ‐ドで急激に上達していった私には、思わぬ「落とし穴」が待ち受けていたのです…。

その後も70台でプレ‐することが数多くありましたが、「安定感」はイマイチで、時には90近いスコア‐を叩いてしまう日もありました。

「その日」も調子が悪く、最終ホ‐ルではティ‐ショットを2発連続OB…。

頭に血が上った私は、クラブを地面に思いっ切り叩きつけました。

すると、シャフトが鈍い音を立て、真っ二つに折れてしまったのです…。

自分の感情をコントロ‐ル出来ずに、バイトで貯めたお金でやっと買えたクラブを折ってしまったことにひどく落ち込みました。

振り返ってみると、アメリカに行ってからの私は「プロになりたい!」という気持ちよりも「プロにならなきゃ!」という気持ちが圧倒的に強かったと思います。

あれだけ親の反対を押し切ったこと、決して安くはない2年間の学費、さまざまなことが知らず知らずのうちに「プレッシャ‐」となっていたのでしょう。

つならないミスをしたり、思うようなスコア‐が出ないと「こんなことじゃプロになれない」という思いが常にありました。

本格的にプロを目指してからは、良いプレ‐や良いスコア‐が出た時の「嬉しさ」はあったものの、ゴルフをやっていて「楽しい」と思ったことは一度もありませんでした。

今思えば、もう少し心に余裕を持ってやれば良かったと思いますが、まだ十代の未熟だった私にはそんな「余裕」は微塵もなかったのです。

中編②に続く ↓

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