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No.277 「プロゴルファ‐を目指した日々」(後編①)

お元気ですか?

最近、毎週日曜日(夜9時)放送の日曜劇場「小さな巨人」(TBS)にハマっています!

「敵は味方のフリをする」がドラマのキャッチフレ‐ズで、 予想出来ぬ展開に毎回「えぇ~!」、「おぉ~!!」の連続。 「早く次が観たいっ!!」と日曜日が来ることを楽しみにさせてくれています。

主題歌「ノンフィクション(平井 堅)」もスゴく深イイ歌なので、もしドラマをご覧になられていない方は歌だけでもぜひ聴いてみて下さい! 

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それではいよいよラストの「後編」をお送り致します。3ヶ月にわたって長々と書き続けてきましたが、今後の人生でここまで思い出すことはもう二度とないと思いますので、最後まで読破していただければ有難く思います!

飛行機が着陸態勢に入り、高度が低くなるにつれ、機内の小さな窓を覗くと、眼下には陸地(日本)が見え始め、見慣れない景色ではなりましたが、何故か懐かしい気持ちになりました。

入国手続きを終え、空港を出ると宇都宮行きの高速バスに乗り込みました。

宇都宮駅に着いたのは夜7時頃だったと記憶しています。

バスに乗る前、空港から到着時間を連絡しておいたので、宇都宮駅前の停留所に着いた時にはバスの中から両親の姿が見えました。

母はバスの中にいる私を見つけると、周りなどお構いなしで両腕がちぎれるくらい手を振って私を迎えてくれました。

バスから降りて、「ただいま!」と声を掛けると母は「おかえりっ!」と満面の笑みで応え、私の肩をポンポンと叩いてくれました。

一方、「超昭和人間」の父は2年ぶりの再会だというのに一言も声を掛けず、ただ黙って私の荷物を車のトランクに積み込みました…。

私が驚いたのは、久しぶりに会った両親が「こんなに小さかったっけ?」と思うぐらい、本当に小さく感じたことでした。

(私の身長は高校時代に178cmで止まったままだったのに…)

そして、もう一つ驚いたのは…

荷物を積み込んだ車は、私が日本を離れた時に乗っていたものではなく、見るからに走るのがやっとのオンボロ車でした。

聞けば、東京の親戚から乗らなくなった廃車寸前の車を譲ってもらったとのこと…。

後部座席に座り、車が走り出すと、カラカラとタイヤが何かに擦れる音がしました。

それは「当たり前の音」らしく、表情一つ変えずに運転し続ける父。

二人の後ろ姿を見つめていると、2年間の苦労がヒシヒシと感じ取れました。

私は話したいことがたくさんありましたし、母も聞きたいことがたくさんあったと思いますが、何故か車の中ではほとんど会話はなく、ただタイヤが擦れる音だけがずっと車内に鳴り響いていたのです…。

家に着き、車から降りると、高校1年の時に行きつけの床屋でもらった雑種犬の「ちゃま」が小屋から出てきました。

(出発前夜は私の部屋に入れ、同じ布団で一緒に寝たことを思い出しました)

私の姿を見ると警戒するように「ワンッ!」と一度だけ吠えましたが、「ちゃま!」と声を掛けるとピタッと動きを止め、聞き覚えのある声に体をくねらせながら私に近づき、両手を広げると私に飛びかかり、「おかえり!」と言わんばかりに、いつまでも顔をペロペロ舐め続けてくれました。

家に入ると、懐かしい匂いがして、その匂いをいっぱい嗅ぎたくて、思いっきり深呼吸をしました。家の匂いを嗅ぐと「日本(家)に帰ってきたんだ」という実感が湧きました。

特にお土産らしいものは買わずに帰ってきたので、荷物はそのままの状態で茶の間の片隅に置き、いつも座っていた場所に腰を下ろし、しばらく天井を見つめていました…。

近所に住む叔父夫婦が駆けつけてくれて、ちょっとした「帰国パ‐ティ‐」になりました。

家族だけではなく、叔父夫婦もゴルフは一切やらないので、ゴルフの話はせずに、アメリカでの日常をたくさん話しました。

話しながら、何気なく飲み物が入ったコップを右手で取ろうとすると、いきなり母が私の右手を掴み、手のひらをジッと見つめたのです…。

すると、マメだらけの手を擦りながら「こんなに頑張ったんだね…」とボロボロと涙を流し始め、その涙を見ていたら私もグッと込み上げてくるものがありましたが、叔父夫婦もいたのでなんとか堪えました。

翌日は親戚や渡米前にお世話になっていたゴルフショップやゴルフ練習場へ挨拶回りに行きました。

練習場では支配人から「アメリカ仕込みのスイングを見せてくれ!」と煽てられると、私もその気になってボ‐ルを打ち始めました。

高校時代とは全く違うスイングと球筋になった私を見て、「たった2年でこんなに成長しちゃうのか!」と驚き、いつの間にか私の打席は人だかり…。

バイトをしていたゴルフ場へも挨拶に行きました。

ちょうどアメリカに行っている間に日本ではプロになるシステムが大きく変わりました。

以前は、ゴルフ場に必ず「研修生」として所属し、そこから段階を踏んで最終の「プロテスト」に合格するしか道はありませんでしたが、フリ‐でも目指せるようになりました。

私は何かと時間の制限が多過ぎる「研修生」ではなく、「フリ‐」という形を選び、高校時代のようにキャディ‐で収入を得ながらゴルフに取り組む事にしました。

でも、大きく変わったのは「プロになるシステム」だけではありませんでした…。

以前のように毎日早起きをしてゴルフ場へ行っても、平日はほとんどキャディ‐につくことが出来ませんでした。

私がアメリカにいる間、日本は「バブル経済」が崩壊したのです。

その影響はゴルフ業界に大きなダメ‐ジを与えました。

あれだけ人で溢れ返っていたゴルフ場が全く別の姿に変わってしまったのです…。

まともにキャディ‐の仕事が出来るのは土、日、祝日のみ。

月に稼げる金額は5、6万円でしたが、実家暮らしだったことでなんとか生活することが出来ました。

4月下旬、自分の力を試そうと、過去に中嶋常幸、丸山茂樹などのトッププロも歴代優勝者に名を連ねる「全日本パブリック選手権大会(現 全日本アマチュアゴルファ‐ズ選手権)」という大きな大会にエントリ‐し、まずはその地区大会となる「東日本パブリック選手権大会」の予選に出場しました。

数ある予選会場の中から私は那須野ケ原C.C(栃木県)を選びました。

毎年、この会場には高校や大学のゴルフ部が多数エントリ‐することを知っていました。

同世代のゴルファ‐たちと勝負して、自分がどれくらい通用するのかを確かめたかったのです。

試合当日、ゴルフ場に行くと、各学校のユニフォ‐ムを着た若者がたくさんいました。

私と同じ組でプレ‐する3人のうち2人は高校生、1人は大学生でした。

スタ‐ト時刻となり、先に高校生2人がティ‐ショットを打ちました。

「大したことないな!」これが私の正直な感想でした。

私の順番が来ました。集中力を高め、いつものル‐ティンでアドレス(構え)に入り、フェアウェイど真ん中を狙ってフルスイングするとボ‐ルは納得のいく球筋で狙い通りの場所に飛んで行きました。

最後は、見るからにゴルフ慣れしてそうな大学生が一度だけ素振りをしてからアドレスに入りました。

そのアドレスへの入り方とアドレスの形やグリップを見た私は「コイツはやるなっ!」と思った直後、驚くほどの打球音を響かせ、私のボ‐ルを50ヤ‐ドも超えていったのです。

私は決して飛ばない方ではなく、むしろ飛ばす方だったので、そこまでの距離を置いていかれたことは初めてでした。驚いたのはその飛距離だけではなく、ボ‐ルの弾道も見事でした。最初は低く飛び出し、そこから徐々に上がっていき、途中から2段階ぐらいグングンと伸びていったのです。

後編②に続く ↓ 

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