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  • 執筆者の写真店長

No.296 父に捧ぐ

更新日:2019年1月4日


お元気ですか?


今年も例外ではなく、過ぎてみれば「あっ!」という間に1年が過ぎ去りました。


おかげさまで、我が「からあげ鳥亀 鶴田店」は来月からいよいよ10年目に突入します!


脱サラを決意し、この商売をやると決めた時、妻には「3年やってダメだったら『ドブさらい』でもなんでもやる!」と言い、「自信6割 不安4割」の気持ちで今までやってきたので、1つの区切りとなる「10年」という響きはとても感慨深いものがあります。


この先もずっと「自信6割 不安4割」の気持ちは変わらないと思いますが、自分を奮い立たせ、常に前だけを向いて歩んでいこうと思いますので今後も変わらぬご愛顧のほど宜しくお願い致します。


そして、今年もたくさんの方々にご来店いただきまして本当に有難うございました!







12月25日 午後3時10分



子供の頃、「俺のお父さんは絶対に死なない!」と本気で思ったほど、鉄人のように強かった父がとうとう力尽き、72歳でこの世を去りました…。


誤嚥性肺炎を患い、11月20日に独協へ救急搬送されましたが、二度の危篤を乗り越え、腸が破裂した後も、最後は点滴を全て外し、鼻に酸素チューブだけを入れた状態で四日間も生きたその姿は、医師から「生理学的に考えるとすでに限界を超えています。驚異的です!」と言わしめました。


やはり、最後の最後まで「鉄人」だった父は、その身をもって私たち家族に大切な事を教えてくれました。



入院時に主治医から説明され、心の整理をする時間は十分にありましたが、いざそれが現実のものとなるとやはり耐え難い悲しみがあります。


でも、少しだけ前向きに考えることも出来ました。


20代の頃、ケガで左目の視力をほとんど失い、15年前には脊髄損傷で下半身不随になり車いすでの生活が始まりました。


昨年の7月には重度の脳梗塞を患い、左半身麻痺での寝たきり状態。


動くのは右手だけになりました。


口からの食事は一切出来なくなり、胃ろうで栄養摂取すること1年数か月…


これでもかというぐらい不自由な体になりながらも最期まで生き抜きました。


でも、天国に行けば、体は全て元通りになり、自由に歩くことも出来ますし、好きなだけ食べられ、お酒もいっぱい飲めます。


そして何より、5歳の時に死別したお母さんと67年振りに再会し、「本当によく頑張ったね!」といっぱい抱きしめてもらえると思います。


葬儀には、年の瀬も押し迫ったお忙しい中でありながら、想像をはるかに超える大勢の方々が父との別れの場に来てくださいました。


きっと本人もビックリしていたと思いますし、とても喜んだことと思います。


私は、今までのブログの中で父に対しての思いを二度書いたことがあります。


今回は父への「追悼の意」を捧げる気持ちで、もう一度2つのブログを記しておきたいと思います。


かなりの長文になりますが、今回は「読んでもらいたい」という気持ちよりも、「私自身」が残しておきたいという気持ちだけなのでご了承いただき、お時間のある方は何回かに分けてご覧になっていただければ幸いです。





「我が父」 2011年7月更新



私の父は農家の長男として昭和21年に生まれました。


5歳の時に母親を亡くし、子供の頃はとても苦労したようです。


高校時代は剣道に明け暮れ、あと1人勝ち抜けば全国大会に出場できたほどの腕前だったそうです(前世はサムライか…)


そんな父は24歳の時に結婚し、2人の子供が誕生しました。

私は次男らしく育ち、物静かで冷静な兄に比べると、幼少時代から何かと問題を引き起こしました。



父は私が小学校に入ると1年~6年までずっと学年部長、その他にもPTA副会長やスポーツ少年団団長と常に学校と接点を持っていたのですが、どうやら私の素行情報を入手するためだったような気がします。


PTAなどの会合から帰ってくると「こっち来い!!」といつも呼び出され、父の前に正座をし、数々の悪事に対して説教されました。1つの悪事に対してゲンコツ1回。


阿修羅のような顔つきと仕事で鍛え抜かれたキン肉マンのような肉体から放たれるゲンコツは気絶寸前の痛さでした。


褒められたという記憶はほとんどなく、逆にそれが今の私を支える「なにくそ精神」に繋がっているように思えます。


父に褒められたくて頑張る → 褒めてくれない → もっと頑張る → まだ褒めてくれない → もっともっと頑張る。 …そんな子供時代でした。


でも、私も子供でしたから時にはくじけそうになりました。


そんな時は母が決まって「お父さんはお母さんなんかよりいつも子供たちの事を心配しているんだよ。」と言ってくれました。


「そんなのウソだ!」と思っていた時期もありましたが、ある1つの出来事で母の言葉が本当だったということを体感しました。


あれは…高校の合格発表日でした。


入試後、下野新聞に掲載された解答を見て合格発表前から「間違いなく合格したぞっ!」と家の中で豪語していたのですが、父は全くの無反応。


発表日当日、なぜか父の運転する車に乗り、二人きりで受験校に向かいました。


当時は早朝に合格発表が行われていたのですが、到着すると合格発表を今か今かと待つ人の群れ…。



しばらくすると合宿寮(2階)の窓が開き、一斉に掲示板が吊り下げられました。


今ではコンタクトをしているので良く見えますが、当時は裸眼視力で0.6ぐらいしかなかったので目を細めて必死に受験番号を探しました。


眼を細めても良く見えないのでもっと近づいてみると…私の受験番号が光り輝いていました。


「あったぁ~!!」と叫び、そのことを父に知らせようと振り返ると…父の顔はすでに涙と鼻水でグシャグシャになっていました。人目も憚らず、涙と鼻水を拭うこともなく、私の受験番号を見つめながら「あった…あった…」と言葉にならない声で何度も叫んでいました。


私は合格した喜びよりも想像もしなかった父の姿が衝撃的でした。


プロゴルファーを目指してアメリカに渡ろうと決意した時も父とは毎晩のように喧嘩をしました。



「俺は絶対プロになるんだ!!」「夢みたいなこと言ってんじゃねぇ!!」と胸ぐらを掴みあった時もありました。


父がある日、静かな口調で「昼飯食ってから横になってお前のこと考えるとなんだか知んねぇ~けど涙が出てくるんだ」と言ったことがありました

だから、挫折して父に「諦める」の一言をいう時は本当に辛かった。


でも、その時の父は下を向いて黙ったまま聞いていました。



それから私はサラリーマンとなり、父は相変わらず仕事一筋で休みも取らず働きっぱなしの日々を送っていました。


そんなある日、本人はもちろん、家族も想像だにしなかった悲劇が起こってしまったのです。



2003年4月11日



その日は、雨が降っていたので現場を早めに切り上げて家にいた父でしたが、夕方になり雨が上がったので庭の手入れをしていました。高い脚立に登り、枝を切り落とそうとしたその瞬間、脚立が滑り、父は4mの高さからアスファルトに叩きつけられてしまいました。


仕事中、携帯に「お父さんが救急車で上都賀病院に運ばれた!」との連絡を受け、急いで病院へ駆けつけ父のもとに向かうとすでに処置がなされていました。


その姿を見て少しホッとすると、医師から「ご説明がありますのでご家族の方はこちらへ」と呼ばれました。


数枚のレントゲン写真を見ながら医師は「出血はありましたが、頭の方は心配ありません。深刻なのは…」と背骨が映っているレントゲン写真を見ながら、「落ちた時に折れた骨が脊髄を傷つけてしまいました。今までの例から見ても今後歩くのは難しいかと思います」


その場が凍りつきました。


母の動揺と落胆。私自身もハンマーで頭を殴られたような衝撃を食らい、しばらく呆然としてしまいました。


その後、独協に移り手術を受けましたが、元の体に戻ることはありませんでした。


それまでの私の記憶では、父は大病を患ったことがなかったですし、キン肉マンのような不死身な体だったので、突然にして下半身不随となってしまったことが受け入れられませんでした。


私は事あるごとに「起こること全てに意味がある」と思っていますが、父が怪我をした時だけは意味を見つけ出すことは出来ませんでした。


「家族と湯澤家を守るために休みなく人の2倍も3倍も働いてきた親父がなんでこんな目に遭わなくちゃなんねぇんだ!」と怒りが込み上げ、しばらくは神も仏も信じませんでした。


仏壇に手を合わせても無心、神社に行く機会があっても手だけ合わせて無心。祈りもしなければ願いもしない。


誰も父に体の事を告げることは出来ませんでしたが、父は自分自身で現実を直視し、障害を背負いながらも新たな人生を歩み出すことを決意しました。


決意するまでにはのた打ち回るほど苦しみ、悩み、絶望の淵で人知れず涙を流したことも数多くあったと思います。


(「病院にいる時、ベランダから飛び降りようとしたけど、足が動かなくてそれも出来なかった…」と何年か経ってから聞いたことがありました。)


家族が一番心配したことは「このまま家に閉じこもり、塞ぎ込んでしまうのではないか」ということでした。


でも父は強かった!!



自ら障害者特別仕様の車を発注し、手だけでハンドル、アクセル、ブレーキを巧みに使いこなし何処にでも出掛けて行きました。


週に2回は希望の家(鹿沼市)にあるシード(障害者用デイサービス)へ行き、同じ境遇の方々と時間を共有しています。一時はビーズ手芸にハマり、実家に個展が出来るほどたくさんの作品が飾ってあります。

我が家の新築祝いにもプレゼントしてくれました!


シードに行かない日は車椅子で近所を爆走しています!


鹿沼インター通りをよく利用する方なら一度は見掛けたことがあるのではないかと思いますが、宇都宮へ向かう途中にある二つの大きな坂を、歯を食い縛りながら登っているのは紛れもなく私の父です。


私も中学、高校時代はトレーニングのためによく走った坂道ですが、二つの坂を往復するとかなりヘロヘロになります。それを車椅子で…。信じられません。


父が脊髄を損傷した箇所はお腹よりもちょっと上の辺りなので足の力はもちろん、腹筋も全く使えないのです。65歳にして腕力だけであの二つの坂を往復するということは並大抵の筋力では出来ません。


もともと、キン肉マンのような体でしたが、そういうわけで上半身は更に鍛え上げられ、ミズノのシャツを着ると肩に入っているMマークはとんでもない形に変形し、胸のMIZUNOの文字はM~I~Z~U~N~Oと伸びてしまいほとんど読めません!


でも、父の性格を考えるとただ単にあの坂を登っているのではないような気がします。


不自由な体になってしまった後、心無い人から「湯澤もこれで終わりだな!」と直接言われ、「おめぇに言われる筋合いはねぇ!!」と怒鳴り返したことがあったと聞きました。


きっと「こんな体になっちまったけど俺は負けねえぞ!!」という気持ちの表れだと思います。


それともう1つ…鹿沼インター通りを行き来する人たちに対し「俺も頑張ってるからみんなも辛いことあるだろうけど頑張れ!」という気持ちの表れだと思っています。


実際、友人や知人から「親父の姿を見るといつも勇気をもらうよ」というメールや言葉を数多くいただきます。


父は鳥亀鶴田店がオープンした当初からちょくちょく買いに来てくれます。


来ると私のいる揚げ場からは見えるか見えないかの場所に駐車するのですが、オープンして間もない頃にこんなことがありました。


父がお店に来て、車の中でから揚げが出来る順番を待っていることは知っていましたが、店の前には行列が出来ていたので油まみれになりながらただひたすら唐揚げを揚げていました。


フッとした時に父の方に目をやると父は慌てて手で顔を拭いました。


私には涙を拭いたように見えましたが、本人にも確認していないので真相は分かりません。

でも、もし涙だったとしたら何に対しての涙だったのだろう…。


私は父から「人生とは…」とか「仕事とは…」とかそういう話はほとんどされたことはなかったのですが、1度だけ「頭のある奴は頭で稼ぐ!頭のない奴は体で稼ぐしかねぇんだ!!」と言われたことがあります。


幼い頃から汗と泥にまみれて働いている姿を毎日見てきましたので、いつからか仕事とはそうものだと思うようになっていました。


だから、ネクタイを締めて仕事をしていた頃は少なからず自分自身に多少なりとも違和感がありました。


だから、今はとてもシックリきています!


父が店に来て、車の中で待っている時は「親父は汗と泥にまみれて働いたけど、俺も汗と油にまみれて仕事してるぞ!」と揚げ場から無言のメッセージを送っています。


そして最後に…親父へ


子供の頃から苦労ばかりかけてきたけど育て上げてくれて有難う!


いろいろ遠回りしたけど、大八木社長のおかげで「一生の仕事」に巡り合うことが出来たよ。


会っても男同士だからベラベラと会話することもないけどいつも陰で支えてくれて有難う!

同窓会に行った時、「息子が唐揚げ屋やってるから行ってやってくれ!」と車椅子で全員の席を回って宣伝してくれたということをある人から耳にしたよ。


今はなかなか時間が取れないけど、そのうち旅行に行こう!


まだまだパワフルなのは分かるけどあまりオーバーワークにならないよう健康には気をつけてほしい。


そして、「妻孝行 したい時には妻はなし」にならぬよう1日1回はやさしい言葉をかけてあげてちょうだい!





「子心」  2017年10月更新



父が指折り数えて楽しみにしていた息子の学童野球最後のビッグイベント「県大会(夏季)」。


父が脳梗塞で倒れたのはその4日前の7月18日のことでした…。


朝、実家から連絡が入り、独協医大病院に駆け付けると、意識が朦朧とした父の姿がありました。


運悪く、太い血管が詰まってしまったのです…。


後遺症はかなり酷く、左半身が全く動かないどころか、言語障害、意識障害、記憶障害などが残り、今は駒生にあるリハビリセンターで「言語」、「理学」、「作業」の3つのリハビリを毎日こなしています。


間もなく発症から4ヶ月が経とうとしていますが、症状は一進一退といったところです。

口から食事を摂ることが出来ないので、栄養補給は点滴のみ。


日に日に痩せていく父の姿を目の当たりにするのは正直辛いものがあります。


リハビリの成果は十分ではなく、口から食事を摂ることは今後難しいということで「胃ろう」の手術を受け、直接「胃」に管を通して栄養を摂る方法を選びました。


再び独協に移り、胃ろうの手術を受けるための検査をすると医師から「高い確率で胃がんの疑いがある」との診断…。


まさに「泣きっ面にハチ」とはこのこと。


私自身、「これでお父さんも終わりなのか…」、そんな思いが一瞬頭をよぎりました。


2週間後、詳しい検査の結果が出て、奇跡的に「陰性」ということだったので、一筋の光が見え、ホッと胸を撫でおろしましたが、父は今もリハビリセンターのベッドで寝たきりの状態で過ごしています。

(胃ろうの手術は2週間後に決まりました)


父を知る人や昔からこのブログを読んで下さっている方はご存知だと思いますが、

2004年の春、梯子から落下し、4m下のアスファルトに叩きつけられ、脊髄損傷により下半身不随の体になってしまい、以後「車イス生活」を余儀なくされました。


その一瞬の出来事でその後の父の人生は大きく変わってしまったです。


入院中、自分の体が不自由になってしまったことに悲観し、「命を絶とうと思ったことは一度や二度ではなかったけど、やろうと思っても体が動かなかったし、家族のことを考えるとそれはどうしても出来なかった…」としばらく経ってから話してくれました。


不自由な体になっても決して引きこもることなく、障害者仕様の車を購入し、積極的に外に出掛ける父を私は誇りに思いました。


健常者が走るだけでもクタクタになる2つの大きな坂が待ち構える鹿沼インター通りを2本の腕だけで車イスを漕ぎ続け、往復することを日課にしました。

(ジム通いしている今の私でも1日やればギブアップするようなタフな道のりです)


不自由ながらも、母や兄夫婦のサポートで、どうにか10年以上やってこられました。


でも、今の父の体は、両足はもちろん、左手までも動かなくなり、動くのは右手だけになってしまい、自力で車イスに乗ることさえも出来なくなってしまったのです。


下半身不随になった時のように「こんな体になるほど、俺のお父さんはなんか悪いことでもしたのかよっ!」と神様を恨んだあの日を思い出し、ベッドに横たわる父を見つめながらその思いは再び蘇り、更に強いものとなりました。


仕事前、週2回のペースで父に会いに行っています。


父が自分から話すことはありませんが、話しかければなんとか聞き取れる言葉で答えくれます。


リハビリも兼ねて、いろいろな事を話しかけます。


発症した後の記憶はすぐに消えてしまいますが、昔のことは本当によく憶えています。

だから、私が小学生だった頃の「思い出話」をたくさんします。

中学、高校、アメリカ留学の時の話もたくさんします。


担当の主治医からは「いつ容体が急変するか分かりません」と言われているので、言っておきたいことや聞いておきたいことをたくさん話しています。



今までちゃんと言ったこともなかったので、苦労をかけてアメリカに行かせてもらったことに対しても感謝の気持ちを初めて伝えました。(父はただ頷くだけでしたが…)


私は子供の頃からある意味「問題児」だったので、父は小学校の時も中学校の時もPTAの役員をやったり、学童野球のマネージャーをやったり、常に私を見守ってくれました。

(見守ってくれたというよりは「監視」されていたのでしょうけど…《汗》)


社会人になっても20代の頃は夜遊びばかりで、ろくに家にも帰らず、貯金はなく、結婚の「け」の字もありませんでした。


直接、私に言うことはありませんでしたが、母には事あるごとに「心配だ」、「あいつが一人前になるまでは死ねない」と言っていたそうです。


ようやく、32歳で結婚した時には披露宴の最後に会場がドン引きするぐらい号泣しながら挨拶をしていたことを思い出します。



15年間のサラリーマン生活を過ごしましたが、その途中でも何度か「自分で商売をやる」と言い出したことがあり、その度に心配をかけました。


「唐揚げ屋をやる!」と言った時も父は大反対だったようですが、もう家族(妻子)を持つ身だった私には何も言いませんでした。


オープン当初は心配だったのでしょう…。


週に何度も買いに来て、それを親戚や知り合いの家に宣伝も兼ねて配り歩いていました。

だから私は1つだけどうしても聞いておきたいことがあったのです。


ある日、目を閉じたままの父にこう聞いてみました。


「お父さん、俺のことまだ心配かい?」


すると、父は両目をゆっくり開いて、「心配ない!」とびっくりするほどハッキリ聞き取れる大きな声で答えてくれたのです。


その一言を聞けた私の目からは涙が溢れ出ました。


「もう俺は大丈夫?」


涙声で聞くと、父は大きく頷きました

溢れる涙は「嬉し涙」でもあり、「安堵の涙」でもありました。


父に対して何もしてあげられてないし、大した恩返し(親孝行)も出来ていませんでしたが、父の言葉と頷きで「最低限の親孝行は出来たのかも…」と今は思っています。


父が車イス生活になった時は、歩いていた頃の写真を見ると切なくなりましたが、今は車イスに自力で乗っていた頃の写真を見ると切なくなります…。


この先、どうなるかは全く分かりませんが、みんなで力を合わせて父をサポートし、父の苦悩を少しでも和らげてあげられたらと思っています。


どんな姿になろうとも、十分な会話が出来なくても「ただ生きていてくれるだけでいい

子が親を思う「子心」というものは、親が子を思う「親心」に負けないくらい強いものがあると私は思います。


親孝行 したい時には 親はなし


みなさんも「限りある親との時間」を大切にして過ごして下さい!






私の父は口数少なく、私に対しても多くは語りませんでした。

でも、その「背中」から言葉以上に多くの事を学ばせてくれました。

その1つ1つを胸に、私も父のように最後の最後まで自分の人生を全力で生き抜こうと思っています!


「お父さん!46年間、俺の父親をやってくれて本当に有難う!その生き様はこれからの俺を本当に勇気づけてくれるよ!じゃあね! いつかまた会える日まで…」




ではまた!



最近、仕事帰りの車内でよく聴いている歌


「鶴になった父ちゃん」(長渕剛)



次回更新は1月31日(木)です

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