No.71 我が父(前編)
お元気ですか?
台風6号は紙一重で日本へ本格上陸せず通過してくれました!
今日は台風の影響からか暑さを感じることなく快適な気分で一揚入魂することが出来ました!
それにしても女子ワールドカップでのなでしこジャパンには感動しました!
MVPに輝いた澤 穂希選手の「夢はあきらめるものではなく叶えるもの」という言葉は
よく耳にする言葉ではありますが、結果を出した人間の言葉には重みと深さを感じますよね!
先週の予告通り、私を育ててくれた両親のことを語らせていただきます。
私の父は農家の長男として昭和21年に生まれました。
5歳の時に母親を亡くし、子供の頃はとても苦労したようです。
高校時代は剣道に明け暮れ、あと1人勝ち抜けば全国大会に出場できたほどの腕前だったそうです (前世はサムライか…)
そんな父は24歳の時に結婚し、2人の子供が誕生しました。
冷静な兄に比べ、私は次男らしく幼少時代から何かと問題を引き起こしました。
父は私が小学校に入ると1年~6年までずっと学年部長、その他にもPTA副会長やスポーツ少年団団長と常に学校と接点を持っていたのですが、今考えると私の素行情報を入手するためだったような気がします。
PTAなどの会合から帰ってくると「こっち来い!!」といつも呼び出され、父の前に正座をし、数々の悪事に対して説教されました。1つの悪事に対してゲンコツ1回。
阿修羅のような顔つきと農業&水道設備業で鍛え抜かれたキン肉マンのような肉体から放たれるゲンコツは気絶寸前の痛さでした。
褒められたという記憶はほとんどなく、逆にそれが今の私を支える「なにくそ精神」に繋がっているように思えます。
父に褒められたくて頑張る→褒めてくれない→もっと頑張る→まだ褒めてくれない→もっともっと頑張る。 …そんな子供時代でした。
でも、私も子供でしたから時にはくじけそうになりました。
そんな時は母が決まって「お父さんはお母さんなんかよりいつも子供たちの事を心配しているんだよ。」と言っていました。
「そんなのウソだ!」と思っていた時期もありましたが、ある1つの出来事で母の言葉が本当だったということを体感しました。
あれは…高校の合格発表日でした。
入試後、下野新聞に掲載された解答を見て合格発表前から「間違いなく受かったぞ!」と家の中で豪語していたのですが、父は全くの無反応。
発表日当日、なぜか父の運転する車に乗り、受験校の鹿沼高等学校に向かいました。
当時は早朝に合格発表が行われていたのですが、到着すると合格発表を今か今かと待つ人の群れ。
しばらくすると合宿寮(2階)の窓が開き、一斉に掲示板が吊り下げられました。
今ではコンタクトをしているので良く見えますが、当時は裸眼視力で0.6ぐらいしかなかったので目を細めて必死に受験番号を探しました。
眼を細めても良く見えないのでもっと近づいてみると…私の受験番号が光り輝いていました。
「あったぁ~!!」と叫び、そのことを父に知らせようと振り返ると…いち早く私の受験番号をみつけた父の顔はすでに涙と鼻水でグショグショになっていました。人目も憚らず、涙と鼻水を拭うこともなく、私の受験番号を見つめながら「あった…あった…」とつぶやいていました。
私は合格した喜びよりも父の姿が衝撃的でした。
プロゴルファーを目指してアメリカに渡ろうと決意した時も父とは毎晩のように喧嘩をしました。
「俺は絶対プロになるんだ!!」「夢みたいなこと言ってんじゃねぇ!!」…と胸ぐらを掴みあった時もありました。
父がある日、静かな口調で「仕事現場で昼飯食ってから横になってお前のこと考えるとなんだか知んねぇ~けど涙が出てくるんだ」と言ったことがありました。
だから、挫折して父に「諦める」の一言をいう時は本当に辛かった。
でも、その時の父はただ黙って聞いてくれました。
それから私はサラリーマンとなり、父は相変わらず仕事一筋で休みも取らず働きっぱなしの日々を送っていました。
そんなある日…本人はもちろん、家族の誰もが想像しなかった悲劇が起こってしまったのです。
後編に続く…