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  • 執筆者の写真店長

No.75 会いたい人



お元気ですか?

お盆中は猛暑が続きましたが、晴天に恵まれましたので親戚の方々や友人たちと楽しい休日を過ごされたかと思います。

我が鳥亀鶴田店は16日(火)まで休まず営業させていただきました!

お盆中は皆様からご予約をたくさんいただいておりましたので、

早朝から渾身の「一揚入魂」をさせていただきました!

本当に有難うございました。

私が今1番会いたい人の名は「マダムシンコ」こと川村信子さん。

ご存知の方も多いかと思いますが、今話題のスイーツ「マダムブリュレ」の生みの親です。

1日に4000個を販売し、ネット販売でも3ヵ月待ちの状態という逸品です!

バームクーヘンにメープルシロップをしみこませたその味は今までの常識を覆し、多くの人たちを魅了し続けております。

「マダムブリュレ」のことはなんとなく耳にしたことがありましたが先日、金スマ(TBS)でマダムシンコさんの特集を観て、マダムブリュレというよりは川村信子さんのファンになりました。

番組の前半は商品やお店、そして5億円の大豪邸が紹介され、後半は生い立ち~現在に至るまでの半生がドラマ仕立てで放送されました。

韓国人を両親に持つシンコさんは4人兄弟の長女として1951年に島根県で生まれ、

10歳の時に大阪に移り住みました。

当時の日本はまだ差別と偏見の時代で「韓国人の子供」ということで幼少時代は大変な苦労をされたそうです。生活は極端に貧しかったため、食べるものは少なく、豚の残飯や腐ったおにぎり、道端の草を食べて育ちました。

18歳の頃、厳しい父親から薦められた男性と強引に結婚させられるも2年足らずで離婚。

家に帰ることは出来ず、田舎町で水商売の世界に飛び込みました。

向上心の塊のようなシンコさんはさまざまな苦労を乗り越えながら前へ前へと突き進み、やがては銀座に店を構えるまでなりました。

時代はバブル絶頂期、順調に店も増やしていきましたがバブル崩壊と共に業績も悪化。

夜の世界に見切りをつけて、借金を背負いながらも大阪で焼き肉店を始めました。

持ち前の明るさと今まで培った接客術で焼き肉店は大繁盛!2年で3店舗まで拡大する勢いでした。

しかし…またもや苦難がやって来ました。

日本中を震撼させた「狂牛病騒動」により一気に客足は遠のき、3店舗あった店は1店舗だけになってしまいました。しかも、追い打ちをかけるようにその店も放火され、残ったのは莫大な借金だけ…。

八方塞がりになったシンコさんでしたが、20歳年下のダンナさんのサポートとお兄さんからの「人生七転び八起き、お前は起き上がる女や!やる女や!」の言葉でもう一度立ち上がり、今度は洋菓子に目をつけました。

そのお店の名が「マダムシンコ」。しかし、ここでも苦難の連続でした。パティシエたちと意見が合わず、全員が店から離れて行きました。パティシエがいなければ商品が作れない。

自ら試行錯誤を繰り返し、考え抜いた末に誕生したのが大ヒット商品の「マダムブリュレ」でした。

この商品は極貧の幼少時代に母が誕生日にだけ作ってくれたバターとメープルシロップがタップリ塗られたホットケーキが大きなヒントになっているそうです。

アイディア1つで今では年商20億円の企業に成長しました。

番組中のシンコさんは本当に明るく元気!60歳とは思えないパワフルな女性でした!

「私は120歳まで生きようと思ってるんやからまだ半分やでぇ!!」と豪語するほど。

番組の最後に司会の中居正広(SMAP)が「成功の秘訣は?」の問いに

「明るさ……笑顔やね!」と一言。その言い方と表情に鳥肌が立ちました。やはり成功者というものは数知れぬ苦労や修羅場をくぐり抜けてきたからこその「成功」なので、その一言に重みと深さを感じました。

番組を観た後、たまたま行った本屋さんで「やまない雨はない マダムシンコ」という本が目に留まり、迷いもなく購入し2日で読破しました!

TVと本を通じてシンコさんの大ファンになった私がネットで「マダムブリュレ」を注文したことは言うまでもありません!

11月に届く予定ですが、1日でも早くシンコさんの全てを注ぎ込んだ逸品を食べてみたい今日この頃なのです!

ではまた!!

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 決勝大会進出に向けて皆様のご声援よろしくお願い致します!

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